歴史は現代史

 牛刀をもって鶏を割く。
論語』にも載る古人の言葉です。
思うに、古代を語るに牛刀はいりません。以下の記事は、週刊爺チャンネルC”C”+と銘打って誰も見ていないようなホームページを運営していた時に、古代雑記(「記紀」の素顔・安万呂の設計図)冒頭で素人にも古代史が語れるということを私なりに述べたものです。

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 「記紀」には素顔があります。その素顔は意外なほどに素朴です。そもそも、古代は素朴な世界です。複雑な思想、高度な技術などはありません。素顔を探る上で必要なものと言えば、陰陽五行と易の思想、そして暦法の技術だけです。なぜなら、「記紀」が使用した漢籍、緯書・山海経淮南子…中国神話や迷信等のほとんどは、そうした思想の基盤の上に連想を積み重ねてできあがったものだからです。「記紀」の素顔もまたそうした思想や技術の上にほんの少しではありますが、当時の人々にとって無視のできない偶然から発した連想が積み重なった結果できあがったものなのです。古代も現代も人としての頭脳に変わりはありません。同じ基盤の上に築かれる連想は同じものとなるはずです。違ったとすれば、それはタブー、禁則事項が原因です。
 タブーあるいは禁則は、五行では「相剋」から、易占では「凶」から、暦では「暦注」から生まれます。古代人の考え方や行動のほとんどはこうした禁則によって制御されています。ただし、禁則はブレーキではなくハンドルです。人は活動によって生活を支えています。従って、禁則とはいえ、活動を阻害するものであってはなりません。「東には行けませんが、西や南や北には行けます」というのが古代社会での禁則です。「記紀」を読み解く上でこの禁則、特に五行のそれは重要です。
 そして最後に、古代と現代とで大きく違う最も主要な点。それは、情報量の多寡から生じる連想の違いです。周知のように古代は素朴で野蛮な時代です。しかし、痴人や野蛮人の世界であったわけではありません。彼らは現代人と同じ頭脳と知識欲を持っていたはずです。しかし、彼らの世界の情報量は余りに少なく、彼らの知識欲を満足させるためには少しの情報からより多くの情報を得ようと連想に連想を働かせる他なかった。そしてその結果、我々にとっては分かりづらいものとなってしまった。そう考えるべきでしょう。したがって、我々が追求するのはその結果ではなく、その連想の元となったものをこそ追求すべきなのです。
 私は、これから述べようとするすべての分野において素人です。しかし、これから解こうとするものが、古代人が少ない情報に連想を重ねていった結果のものだとするならば、我々もまた少ない情報に連想を重ねれば良い、そう言えるのではないでしょうか。
と、まあこういったふうな主張になるのですが、以下もう少し付け加えますと。

 いわゆる歴史とはいわゆる歴史書のことです。したがって、歴史書はその書かれた時代の考えが反映されていて、必ずしも真の歴史とは言い得ない場合があります。真の歴史を知るにはその書かれた時代を先ず知らねばなりません。しかし、その時代を知るにはいわゆる歴史書を読まなくてはなりません。しかし、そこで得られる歴史書は先だって述べたようにその書かれた時代の考えが反映されていている歴史で、真の歴史とは言い得ない場合があります。…
 結局、歴史とは現代史なのです。過去のことを扱ってはいますがその時点での現代史なのです。

 よく似た言葉にノンフィクションがあります。既成概念としてはいわゆる嘘では無い事実を指すらしいのですが、表現者は生身の感情を持った種々の分野のスペシャリストであり、当然右傾もいれば左傾もいます。つまりノンフィクションとは、事実を扱ってはいますが、いわゆる偏った事実だと。

 以上述べましたことは、おそらく色々の場合にも当てはまることだと思います。

引用元: 歴史は現代史

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